大阪の西成区で創業してからなぜ岡崎に来たのですか。
繊維原料が集まる拠点が大阪にあり、私の祖父がそこで繊維原料回収業として昭和25年に創業しました。集まった繊維原料から綿を作る工程や糸を作る工程を経て軍手になりますが、その工場の多くがここ岡崎にありました。そこで私の父である先代が、昭和38年に大阪から反毛(綿を作る工程)と紡績(糸を作る工程)を行う会社を興すためにここ岡崎に来ました。
この会社で一番大変だった事は中国製軍手の品質向上と伺ったのですが、それについて具体的に何をしたのか教えてください。
軍手というのは12双が入って1ダース、それを販売して数百円という単位。手袋だと軍手と違って1双が数百円。それぞれの単価が全然違います。軍手は60ダースが入って1つの段ボールになるので、要するに720双の軍手が段ボールの中に入っています。その720双が全て何の問題もない商品かというとそうでもなく、全部完璧な商品だということがほとんどありません。それが中国製軍手の現実です。ちょっとだけ糸がほつれていたり、指の股の真ん中に穴がすこし開いていたり・・・。そういうことが当たり前という世界だったのを、なんとか変えようと行動してきたことが苦労しました。
いくら私と中国人の社長さんとで協力しあい、日本向け商品の品質について工員に教育をしても工員の人は旧正月になるとみんな地元に帰ってしまい、3割くらいしか戻って来ません。戻ってきた工員さんも、中国はどんどん発展していくのでまた別の賃金の高い工場等へ行ってしまいます。また一から教育をやりなおしです。毎年それの繰り返しで、先に言った程度の品質から少しも向上しません。なので新規の工員さんにいかに速く日本向け商品の品質を理解してもらうかが重要になります。過去のクレームの写真を見せてこういった商品は日本では好まれないという事や、過去こういった過程でこういったクレームが発生したという資料を作って見せるようにしています。また一定期間クレームを出さなかった工員の方には表彰するようにしています。
この会社で一番うれしかったことは先代とは全く関係のない仕入先、売り先を新たに開拓したことと聞いておりますが、そこまでに何年かかりましたか?
仕入先の開拓は正直結構かかりました。実際に新規の開拓が出来たのは最近だと思います。中国がメインの仕入先だったのですが、どうしてもどんどん人件費が上がっていってしまうので、他の国で物を仕入れなければならなくなり、そこでインドから仕入れてみようという事になって新規で開拓しました。その他には、バングラディシュからも仕入をさせていただいています。岡崎繊維業界のつながりから、青年部でバングラディシュに行く方がいてそのご縁で。それは先代と違って地元業界のつながりを大切にしてきた私だからこそ出来た事ですね。
売り先については当社に入る前に自動車販売の営業をやっていたので、その経験もあって、先代に営業面で色々と言われたことがあまりなくて、勝手に新しいところへ売って来いという感じでした。ただすぐに新規売り先に商品を販売できました。ローラー作戦と言いますか、全国繊維企業年鑑というものがあって、そこから100件くらい電話すると10件くらいアポが取れ、その中から1、2件新規で取引してもらえるという感じです。
学生時代の喫茶店のバイトから活かせたことはありますか?
すべてです。働くことは楽しいこと、いいことだなと思いました。まったく何も出来ない状態から仕事が始まって、4年後にはすべて任されるようになっていたので、働くことに対してとても自信になりました。
この仕事に就いたのはなぜ?という質問にこういうタイミングだったとありますが、きっかけはありましたか?
従業員の一人が定年になる時期が来て、新たに従業員を募集する際、先代が息子である私に事業を引き継がせたいと考えたそうです。先代から打診があった時、私が丁度その頃結婚して子供も生まれたばかりでお金が必要な時期だったというのがきっかけの一つです。もし結婚していなかったり子供がいなかったら日産にそのまま勤めていただろうし、従業員の一人が定年じゃなかったり、先代がほかの人をいれていたら入ってなかっただろうし色々なタイミングが重なってこの仕事に就きました。
会社の事業内容について、ほぼ軍手のみを販売しているということですが、どうして軍手だけにこだわるのですか?
もともと岡崎に来てからの当社は反毛屋であって糸商だったので、糸を売って出来上がった軍手を仕入れて売るというスタイルでした。それをずっと継続してやってきて、輸入手袋をやるようになってからも高田商事といえば軍手というイメージがお客様に浸透していたからです。また、軍手しか扱わないということで、資金のすべてを軍手に投入できます。結果在庫を切らすことなくお客様の注文に常に即時対応でき、他社には出来ない当社の強みになっています。
なぜすべての部門を一人体制でやっているのですか?
人件費削減の意味が大きいですが、一人ひとりが責任をもって仕事をやってくれるので大変効率が良いです。他の誰に聞いても分かりませんから結果自分で考えて仕事しますのでどんどん成長してくれます。仕事ができる人が集まってくれて人材に恵まれたからこそ出来る事ですが。私は常にどの部門でもはいれるようにしています。
現在の事業内容で、学生の意見を取り入れるとしたらどんなことがありますか?
若い人が使ってみたいなっていうような色や模様、手口の色も白とか黄色とかグリーンじゃなくて、違う色がいいんじゃないかとか。シールもいかにも作業用品のシールじゃなくて全然違うシールが貼れるのではないか。そういった案があれば。今はシールも全部自分で作っていますが、若い感性の必要性は強く感じます。
ただ最近同じような意味で今までとは違った感じのシールが出来るのでは?と妻にシールを作ってもらった軍手がありますが、シールが女性の感性故、婦人用のものだと思われているのか今の所あまり売れていません。ただ軍手は何かの拍子にいきなり売れ出すことがあるので辛抱強く売っていきたいです。3年ほど前、ゆるきゃらが流行ったので子供に親指を上げて「グッド」の手の形のキャラクターを作ってと頼んだけど、作ってくれなくて結局私が作りました。名前はグッジョブ君です。最初は全く売れませんでしたが今ではこの軍手が大人気商品になっています。そういったこともありますからね。
5年後または10年後、どんな環境にあると思いますか?
これから人口減少時代に突入していきます。販売業にとっては非常に厳しい時代です。人口が減っていくと、たとえば100あるお客様の中の10のお客様に物を売っているとすると、人口が減って分母が90になったとします。なにもしなければ当社の販売先も当然10から9に下がります。分母が90に減っても分子は10という状態にしたい。そのために、どうするのか?既存のお客様は廃業等で減っていくので新しいお客様に売るしかありませんが、そういうときに普通の軍手だけだと値段で勝負するだけになってしまいます。お客様の求める、工場単位、もっと言えばその工場のライン単位で求められているような軍手を作っていき、そういった細かい仕事を積み重ねて、他社の売上が落ちてきても当社は伸びているという環境にしておきたいです。
繊維リサイクルの街岡崎について教えてください。
岡崎に古着が集まってきて白綿を作って糸にして全国に販売、色綿を作ってフェルトにして自動車産業等に販売というのを岡崎の一大産業としてやっていたのですが、国内で軍手を作る工場が減っていって、糸は全然売れなくなってしまいました。今では色綿をフェルトにして車用の部品やエアコン用の部品にすることが主な岡崎の繊維リサイクル産業になっています。ただ今年青年部の中に、色綿から糸を作る人や綿を作る人がいて、それでみんなで何かを作ろうということになって完全岡崎産のリサイクル軍手を作りました。繊維リサイクルの街岡崎の復活のための第一歩です。また繊維の団体から市会議員になっている方もいて、再来年が市制100周年だからそれに合わせてもう一度全国に、繊維リサイクル岡崎をPRしていこうと言われました。これがなかなか大変ですが皆で力を合わせて頑張っていこうと思っています。