職場の雰囲気
「従業員同士の距離感が近く家族のような雰囲気です。」
働きがい
「他者にはできない仕事をしているのでお客様から感謝されることが多くとてもやりがいがあると思います。
将来性
「白綿を唯一取り扱っているためこれからも必要とされ続ける企業だと思います。」
会社の経営理念はなんですか?
世の中の役に立つ綿を作ることとネバーギブアップです。うちに来る繊維っていうのは、世の中の捨てられてしまうものです。
どんなにいいものでも綿にしかなりませんから。だけどそれがもう一回いろんなものに使ってもらえるっていうことはありがたいことで、ただ、綿にするのは苦労があるわけです。苦労があった分できたときはやっぱりうれしいものです。
従業員数を教えてください
従業員、パートまで入れて6人です。
創業の歴史を教えてください
屋号が違う頃があったけれど、紺野反毛としては1950年くらいなので70年くらい経ちます。
前の屋号はなんでしたか
鈴木反毛工場でした。「旭日綿機」の方が鈴木さんで、あそこがモデル工場でうちの親父が工場長をやっていました。
それでのれん分けみたいな感じで何年かやったけどそのあと紺野反毛になりました。
創業当時の状況を教えてください
今は丸山町だけど以前は栄町に工場がありました。6年ぐらい前に工場が火事になってしまったので移転しました。栄町の時は倉庫を入れて200
坪ぐらいの工場だったかな。創業当時は、今と違い電気ではなくて水車の回転を動力として使って綿を作っていました。
その後、空気の力というか風車を利用していましたモーターが出来ました。その後技術発展により自動化されるようになりました。創業当初から原理自体は変わっていないので先代の知恵は素晴らしいと思います。
紺野(一希)さんの祖父が創業者ですか
そうですね。今は叔父が社長です。厳密にいうと紺野という屋号のつく会社が2つあり紺野反毛と紺野繊維産業です。反毛と物流があるので、一緒にやっていることは確かなのだけど。
紺野反毛で製造して、紺野繊維産業で完成した綿を配達しているのですか?
紺野繊維産業では基本的に仕入れと出荷と物流を行っています。
紺野繊維産業では、紺野反毛で仕入れてきた製品を加工するというのが本業ですか?
二通りあります。一つ目は、メーカーさんに、トラックに不要になった製品を積んで私のところに持ってきてもらい、持ってきてもらった製品を私どもが
綿加工して、完成した綿をメーカーさんにもっていってもらう方法です。もう一つは、私が取引先に原料を直接取りに行って、加工して綿として売る方法です。
紺野反毛さんになられてからの歴史を教えてください
昔は、学校で使うモップ用の綿を主に作っていました。それに加えて、手袋の仕事などを少しやっていました。
モップ用の綿を作っていたのですか?
シャツの余った切れ端やそれを作るときの糸くずを利用してモップを作っていました。現在ではモップ、手袋、フェルトなどの詰め綿や医療関係に使われている綿も作っています。
災害や火事などをどのように乗り切りましたか?
周りのお客さんからの「この会社がないと困るから何とか再開してくれ」という言葉があったから乗り切ることができました。その言葉がなかったら土地売っていたと思います。周りの機械屋さん、カット機屋さん、建築屋さん、みなさんが他の仕事を差し置いてでも協力してくれました。
他の同業者の反毛屋さんが、どうしてもやれない綿は別として手伝ってくれて、本当に頭が下がりっぱなしでした。その時に人のやさしさを実感しました。
会社に入られる前は何をされていましたか?
一希:鉄道会社に就職して、車掌をしていました。6年前に火事があったタイミングで、やる人が減ったので手伝うことを決めました。
ライバルはいますか?
白を主体としてやっているところは周りにほぼないのでライバルは特にいないです
会社自体の売り上げについてどうお考えですか?
売上を多くして儲けるのが一般的ですが、うちはお客様との距離を大切にしたいと考えているのでお客様の「ありがとうございました、助かりました」という声が一番の利益です。
現在はどのようなお仕事をされているのですか?
社長:現在どちらかと言うと、反毛としては特殊な仕事だと思います。CMなどの吸い取り心地の良いコットンみたいないわゆる脱脂綿のようなものを主に作っています。非常に作るのに労力を費やします。
端切れが一定のものならいいのですが、厚いもの、薄いもの、柄のもの、メッシュのものなどを一定のものに変える、それがなかなか苦労しました。
でもやっぱり苦労して出来たものは、お客様も喜んで使ってくれます。メイン以外だと、詰め綿ですかね。他の反毛屋さんでは、様ざまな理由からカットができないそうで、そこを私の会社が機械を改良してやっています。